事故を見た。その時、僕はとりとめない空想にひたりながら、いつもの道をぼんやりと下校していた。機械的に校門を出たあたりで、向こうから猛烈な勢いでやってくる古いアルファロメオが視界に入った。車は少し蛇行したかと思うと、急ブレーキのスキール音をたて、僕を通り過ぎた刹那、派手な激突音と衝撃をあたりに撒き散らした。反射的に振り向くと、すぐそばの電柱に車はめりこんでいた。ドライバーとおぼしき人物は向こうの地べたでぐったりしていた。そして車と電柱の間には学生服の男が挟まれていた。男はぼんやりとした目で僕を見ていた。男の目は僕に、これ冗談だよな? と聞いていたが、その質問のかわりに男の口からこぼれでたものはどす黒い血だった。
ドライバーから流れ出た血は赤黒い水溜りを作った。ドライバーはその血溜りに突っ伏したまま、体を細かく痙攣させていた。フロントガラスを突き破り、一度壁で跳ね返り、地べたに顔面から激突した。血痕からそんな様子がすぐにわかった。誰かがドライバーを抱きかかえた。顔が末期の湯豆腐みたいにぐちゃぐちゃに変形していて、抱きかかえた男が、ヒッ、と小さな悲鳴をあげて地面に落としてしまった。ドライバーの頭が軽くバウンドし、そのまま動かなくなった。
不幸な男は突拍子もないジョークに呆れ果てたように薄笑いすら浮かべていた。ゴボッ、と、何かどうしようもなく致命的なものが漏れ出す音がして、口から血を大量に吐き出し、赤いアルファロメオのボンネットをさらに濃く赤く染めた。目はやがて消え行くろうそくのようにうつろになっていった。
立ち尽くしている僕を誰かが突き飛ばした。その拍子に、僕は我に返った。一目散にその場を走り去った。救急車を呼べ、とか、車をどけろ、とか言う声が遠くで聞こえた。
@ @ @
次の日の朝、教室は明らかに重苦しい雰囲気に包まれていた。あまりに異様な雰囲気に疑問符が頭をよぎった瞬間、僕の目に飛び込んできたのは誰かの机の上においてある白い花だった。それは僕を混乱させた。そこはかつて「アイザワコージ」が座っていた席で、昨日、あれほど間近に見ていたにもかかわらず、あの事故で死んだのがアイザワだったなんて今までまるで気がついていなかったからだ。それこそ何かの冗談だと思って、笑おうとして、止めた。
アイザワを除くクラスの全員がもう登校していた。教室は密やかにしゃべるグループと自分の席で押し黙っている人の真っ二つに分かれていた。感情を押し出して喋る人は誰もいなかった。僕は後者で、何人かが僕に話しかけようとしてためらい、結局は自分の居場所に戻っていった。僕は斜め前の、かつてアイザワの席だったところにおいてある白い花を見ながら、昨日のことを思い出さないように務めていた。それでも断片的に昨日の情景がフラッシュバックした。不幸な男の顔は靄が掛かっていたり、コマツだったり、ツチダだったりしたが、僕が思い出せる限りの顔で、唯一アイザワだけがそこにハマらない気がして、笑おうとして、止めた。
朝の学活の時間に、教頭が校内放送でアイザワの死を告げた。みんなわかっていた事だが、あちらこちらでため息が漏れた。そしてこの教室のどこかで誰かがすすり泣く音がきこえた。それが僕らをより重苦しい雰囲気にした。誰も教頭の話を聞いていなかった。僕らは、昨日の午後にたった18年の生涯を閉じる事になった、アイザワの事を考えていた。
教頭が、黙祷、と言った。
@ @ @
1時間目が終わって、猛烈な眠気に襲われた。昨日よく眠れなかったのだ。僕は授業をサボり、学校近くにある神社にいって一眠りしようと決めた。
神社は小高い丘の上にあり、町がよく見えた。そのさらに向こうには海が見えた。浜風が石段を駆け上がり、境内はいつも心地よい空気に満ちていた。今日みたいに天気のいい日はさらに気分がいい。学校を抜け出し、急ぎ足で石段を登り、日を避けて神社の裏に回ると、そこにはヤマグチがいた。
僕らは何も言わず、みつめあっていたが、僕はそのまま、ヤマグチの隣に座った。ヤマグチが懐からタバコを取り出し、口にくわえ、そして僕にも薦めた。僕はタバコを一本取り出し、火を点けた。僕らは大きく吸い込み、ゆっくり吐き出した。
そのまま1本吸い終わってから、少し眠りたいんだ、と僕は言った。どうぞ、というようにヤマグチは首を竦めた。僕はタバコを揉み消し、やぶに吸い殻を捨てた。そのまま地べたに寝転がろうとした時、ヤマグチが、寝心地悪いだろ? とつぶやいた。実際のところ、選り好みしていられないぐらい眠かったのだ。僕がそう言うと、ヤマグチは、来いよ、といって立ち上がり、歩き出した。僕はその後を追った。
ヤマグチは境内の集会場の入り口のところにいて、戸の脇に並んでいるアロエの鉢植えの下から鍵を取り出しているところだった。物知りなんだな、と僕が言うと、ヤマグチは少しだけ笑った。
神社の境内にある集会場に入ったのはそれが初めての事だった。入ったとたんにホコリのにおいがしたが、すぐに慣れた。壁一面に習字が張ってあった。「初春」「初日の出」。中の部屋にはゴザが敷いてあった。確かに外で寝るよりははるかによさそうだ。
僕は倒れ込むように横になった。
@ @ @
・・・そして短い夢を見た・・・
@ @ @
気がつくと、僕は天井を見ていた。冷や汗が流れ落ちていた。夢の余韻が僕をもう一度引き込もうとしてる。慌ててあたりを見回した。ヤマグチを見つけた。ヤマグチは僕には無関心に、思いつめた表情で天井を見つめていた。ヤマグチの顔を見た瞬間、安堵し、現実に引き戻された。僕が起き上がると、ヤマグチはちらりとこっちを見た。僕は時間を聞いた。もう昼休みが終わったらしかった。
その後、僕らは長い長い長い沈黙の時間を過ごした。タバコを何本か吸って、何度か寝返りを打ち、気持ちの悪かった寝汗が乾くころ、ヤマグチが口火を切った。
アイザワのことは良く知らない、ああいうやつだからな。僕は無言で同意した。でもこんなふうに死んだら忘れられなくなる、ああいうやつでも、折にふれて、アイザワのことを思い出すんだよ。これから一生。とヤマグチは言って、僕の方を見る。
お前、見てたんだろ?
一瞬意味を掴みかねたが、アイザワが死んだときのことだとすぐに気づき、なんで知ってる? と、とっさに返していた。みんな知ってるさ、とヤマグチは答えた。お前あの時、校門の真ん前に立ってたんだぜ。それでお前は逃げたって噂になってる。
逃げた? 目の前が真っ暗になり、意識が遠のきそうになった。何か言おうとしたが、言いたいことがあまりに多すぎて、何からしゃべっていいのかわからなかった。混乱していた。嫌な汗がまた吹き出てきた。そんな僕の様子をみて、ヤマグチが冷静に取り繕う。いや、お前を攻めようって訳じゃないんだ、むしろ俺はお前の方が正しいと思ってる、あの時みんな、派手な激突音を聞いて、われ先に死体を見にかけ出してたんだぜ。
僕は深呼吸をして、気持ちを落ち着けた。ヤマグチがタバコを勧めてきた。僕はタバコを受け取り、火をつけ、深く吸った。
不思議なんだ。と僕は言った。人が死ぬ瞬間をみて、眠れないぐらい怖かったのに、それがアイザワだったって知ったのは今日の朝、机の上の花を見た時だったんだ、今でもあれがアイザワだったって実感がない、死ぬ瞬間をあんな目の前で見ていたのに、あれが現実の出来事だったっていうのがまるで信じられない、他人事みたいだ、眠れないぐらい怖かったのに。
ヤマグチは黙っていた。僕は昨日のことを反芻していた。・・・いつもの道をぼんやりと下校していた。・・・機械的に校門を出たあたりで、向こうから猛烈な勢いでやってくるアルファロメオが視界に入った・・・。それは現実なんだ、アイザワなんだと一つ一つ言い聞かせながら。アイザワから何かどうしようもなく致命的なものが漏れ出したときに、ヤマグチが口を開いた。
昨年親父が死んだんだ、と。
@ @ @
親父はびっくりするぐらい、あっけなく死んだんだ。ある朝、目覚めなかった。そんな感じ。
親父は茶の間のソファーでテレビを見ながら寝る癖があったんだ。電気を消して、テレビだけつけて。ほとんど毎日。俺が小学生の時からそんなことをしてたんだ。最初のうちは母さんも親父を起こして部屋で寝るように言ってたみたいなんだけど、やめないから、そのうち母さんもあきらめて、親父は茶の間で寝ることが当たり前になってた。
それで、ある朝、そのまま死んでたんだよ。普通に。電池が切れて心臓が止まりましたって感じで。体に悪いところは何もなかった。苦しんだ様子もまるでない。楽に死ねてよかったかもしれない、とすら思うよ。
でも、その死んだ日の夜、俺は親父を見ていたんだ。たまたま夜中にトイレに立ったんだ。そんなこと年に何度もない。その日はたまたまトイレに立った夜だった。
廊下を通ると、茶の間から光が漏れてた。しょうがねぇなぁ、とか思いなから茶の間に入った。テレビは付いていた。親父は横になって目を閉じてた。布団をちゃんと掛けていることを確認して、テレビを消して茶の間を出た。そしてトイレに行き、寝た。そして明らかにうろたえている母親にたたき起こされたんだ。
・・・・・・。
それから通夜とか葬式とか、いろいろバタバタあって、感傷に浸る間もなく時間はすぎた。そのバタバタが過ぎ去って、明日から普通の生活に戻るってその夜、寝る前に、ふと思ってしまったんだ。
あのとき、親父は死んでたんだろうか、生きてたんだろうかって。
親父が死んでからすごく忙しかったから、そんなこと考える暇がなかった。でもそれを思ってしまった瞬間、その疑問に取りつかれた。テレビの光に照らされる親父の顔を思い出してみたけど、息してたのか、してなかったのか、まるで思い出せないんだよ。寝息を立ててたような気もするし、全くうごいていなかった気もする。まさかその日の朝に親父が死んでるなんて思ってもみなかったから、息してたかどうかなんて、全く気にしてなかったんだ。
あのとき生きていたのか死んでいたのか、それを知ったところでどうしようもない。なんの意味もない。それはわかってる。でも知りたいんだ。どうしてもあのとき親父はどうだったのか知りたいんだよ。俺が見たのは死後間もない姿だったのか、生前最後の姿だったのか。もちろん答えはもうわからない。
でも知りたいんだ。
@ @ @
結局、僕らは放課後しばらくしてから学校に戻った。ヤマグチが親父の話をした後、僕らは間を持たすためだけの会話に徹した。それ以上深い話になりたくない。僕も、きっとヤマグチもそう思ったのだ。
ヤマグチは一応部活に顔を出すと言って、昇降口の前で立ち止まった。じゃあ、といって、外履きに履き替えてるそのときに、結局みんな死ぬ、とヤマグチは言った。俺らが生きてる限り、誰かが死んでく、そして最後に俺らも死ぬ。
その通りだ、と僕は答えた。
俺は親父が死ぬ瞬間を見れなかった、お前はアイザワが死ぬ瞬間を見てた、誰かが死ぬ度に、あるいは何でもない時に、そのことを思い出す、そしてみんな死ぬんだって思う。
その通りだ、と僕は答えた。
それを忘れている間でしか、俺らは生きられない。
・・・そうなのか? と僕は聞いた。ヤマグチは、少なくとも俺はそうだ、と答え、お前もたぶんすでにわかってる、と付け足して、部活へと向かった。
@ @ @
僕はいつもの道を下校していた。昨日の電柱のそばには花が手向けられていた。僕はそれをじっと見ていた。燃え尽きた束の線香。湯のみに注がれた水。初夏の風。暮れなずむ日。その光景が、僕の心の中で強く焦点を結ぶ。ディテールが刻み込まれる。でも、いつか僕の中でその光景のディテールが磨り減り、思い出そうとしても思い出せなくなるんだろう。あるいは、あまりに精細すぎるその光景の意味を、いつか見失ってしまうのかもしれない。
アイザワのために祈ろうと思った。でも、どうしてもそんな想いになることができなかった。
・・・そもそも僕はなにかのために真剣に祈ったことはあるのだろうか。
祈る。それは単に自分の中で自分の願望を表明し、それが叶えばいいなあ、とか、そのためにがんばろうとか、あくまで自分の中で完結するものであって、他人のために何かを祈るというのは、他人がこうなればいいなあという自分の願望を自己完結させるために行われて、他人にとってはまったく有効性のない行為ではないか。
必死で祈れば、アイザワが生き返るんだろうか? 必死で祈れば、昨日に戻ってアイザワを救えるんだろうか? あのとき、僕はあの場を立ち去らずに、アイザワに手を差し伸べれば良かったんだろうか? それでアイザワは死なずに済んだんだろうか? 俺がだれよりも早く救急車を呼べば、アイザワは助かってたんだろうか? 一言、ナイスジョークだろ? といえば、なぁんだ、といってアイザワはそのまま家に帰ったんだろうか? もっと意識的に下校してればアルファロメオの異変に気づき、車にひかれそうになっているアイザワを突き飛ばして救う事ができたんだろうか?
神社で短い夢を見た。それは無の暗黒の中でもがくアイザワだった。運悪く、死の中で目覚めてしまった意識。アイザワは助かろうとしていた。無の中で、何かをつかもうと腕をのばしていた。どこかに進もうと足を動かしていた。行く先を探していた。耳を研ぎすましていた。でも何もない。どこにも行かない。何も見えないし、何も聞こえない。アイザワは絶望した。やがて絶望すらもやめて無に身を委ねた。アイザワが暗黒に飲まれていった。
そんな夢だ。
救済があればいいと思う。それは本当にそう思う。でもきっと僕にはそれができない。
僕はその場で立ちつくし、目をつぶり、アイザワのことを考え、祈る気持ちになろうとがんばっては見たのだけど、結局僕は祈ることを止めた。
0 コメント:
コメントを投稿